下手の考え休むに似たり

ある男の人を好きになった。会えないときには電話、いや、メールのひとつでもなければ落ち着かず、電話がかかってきたとしても緊張して何も話せず自分からすぐに切ってしまい、会ったところでまともに目を見て話すこともできない。その男の人が友人と会ったと言えば、私はその男の人に会えないのに、その男の人の友人はその男の人に会えて羨ましいなと誰だか知らない相手に嫉妬してみたり、その男の人の部屋に、女の人と一緒に写っている四つ切に引き伸ばした写真があって、この人は誰なのだろう?とそわそわしたり、その男の人の家に泊まったときに借りたトレーナーが洗濯されていないもので、袖口からは煙草のにおいがして(その男の人は煙草を吸わない)、「なぜそんなトレーナーを私に貸すのだろう?」と悶々としたり、自然にコンドームを引き出しから出すので「誰と使うために用意していたものなのだろう?」と動揺し、コンドーム装着を拒否したり、その男の人とセックスをすると、一週間前に生理が終わったばかりなのに、またすぐに生理になってしまったり。それまでの私には想像もつかないほどの取り乱しようだったわけです。

そのうち、男の人は、自分がイメージしていた存在とは大きく違う生々しい私のことが、自分には要らないものであったと気付くわけです。それに気付いた後、私と会ったときに男の人はそれを私に気付かせようと直接的ではない言動にした。私にはすぐにそれがわかった。帰り道、私は動揺を抑制できずに倒れた。しかしそれは仕方のないことだ、と思った。だが、それは本当にそうなのだろうか?と無駄なことを考えてしまった。そのときはまだ好きで好きでたまらなかった。これがよくない。そんなときは「下手の考え休むに似たり」で、何も考えず糞して寝るか、スポーツで汗でも流せばよかったのだが、さらに無駄を重ねるわけです。ながいこと胸が苦しくて眠れず、自分が何をやっているのかわからないほど昼間から酩酊状態。男の人は「あなたは僕ではない僕に右往左往している」と、言った。いま思えば、男の人のいうとおり。私は偶像に恋していたわけです。なぜ感情を見せないのか、私は苛立ち、1人で冷静で感情を見せない男の人が最低な人間だと思った。そのときは気付かずにいたが、それは甚だお門違いであった。男の人は早々に「要らない」ものに気付いていただけなのだ。そして私は自分の思い通りにならない偶像相手に苛立ち、「もうこんな最低な男はイヤだ」と思ったのだった。1人で勝手に感情的になっている私はその男の人からしてみれば、異臭を放つ汚物のような存在だったのだろう。

ふと「くだらない」と思った。その言葉が出た瞬間、自分が1人で勝手に作り上げたくだらないお話の中で過ごしていたことに気付いた。そうだ、そもそものはじめから、偶像だったのだ。その男の人とのあいだに何かしら「関係」や「共有した時間」があったと信じたかったのだが、そんなものははじめからなかったのだ。ただほんの短い時間一緒にいただけであった。まったく何もなかったのだ。1人で勝手に作りあげただけのものだったのだ。そして私はその男の人を犯したのだ。まったく、まったくもってひとりよがりで最低である。あまりにくだらない妄想に長時間囚われていただけであったことに気付けたことによって、偶像を捨てることができた。

その男の人は私にしてみればはじめから幽霊のようなもので、いま思えば誰なのかどんな性格の人なのかも知らないし、生きてるのか死んでるのかもわからないし、今後見聞きすることもないだろう。それはそれでいい。自らの恥を思えば、二度と会いたいとも思わない。ただ、それまでの偶像を捨てたことによって、また違ったかたちで偶像となり、私の頭の中に在りつづけることになったのは、とても残念に思う。幽霊ではなく生身の人間だったら、頭の中に在りつづける偶像にはならずに、完全に消去することができたように思う。幽霊にしてしまったのは私の問題なのだろうけど。

これほどくだらないことはあとにもさきにもこれっきり。